「尾太鉱山」をご存じですか?
白神共生機構会員のさくらいです。ここでは平仮名です。
さくらいの記事でブログを更新するのは、誰かの原稿が届かなかった時なので、諸々察していただければ幸いです。
ヤケに詳しいなぁと思ったら、長谷川先生の特別講演の原稿が公開されてるのですね。なるほど。もしや、その時の講演って、次に発表したのは・・・あの時のパワポはあるけど、喋り原稿作ってなかったし、なにより時間オーヴァしたしなぁ・・・
にしても、「鉱物収集趣味者のあいだでは菱マンガン鉱の産地として世界的に知られていた」ですって! 当時、インフォーマントだった元鉱員さんからいただいたズリ(鉱石のうち資源として使えず廃棄する岩石などの部分。九州では「ボタ」)、趣味者の現場持ってったら、それなりの値段になるのでは? 山下先生のとこにあるのか? それとも弘大にあるのか?
たしかに聞き取りでも、当時も今も随一の歓楽街、弘前市鍛治町の支払いを屑鉱で済ませたなんて話を聞きました。上述のWikipediaにも記載ありますね。わざわざ尾太の山奥から、そんな重たいの持ってきたのか。凄いぞ。鉱山の男達!
閑話休題。
「尾太鉱山」は「おっぷこうざん」と読みます。
Wikipedia記載の通り、伝承での開山は平安初期の807(大同2)年とされています。が、このブログで主に記していくのは、1952(昭和27)年に三菱金属鉱業(現在の三菱マテリアル)が買収・設立した子会社の「尾富鉱業」を中心に、各地から人が集まった鉱山集落についてです。1955(昭和30)年から1971(昭和46)年までの短い間に銅の年間採掘量は最高を記録したものの、1978(昭和53)年に閉山し集落は衰退・消滅しました。
たったの27年で誕生から消滅までを経験した尾太鉱山と、付随する尾太集落について、WIkipediaよりもうちょっとだけ詳しく、なにがあったのか、さくらいの卒業論文を基に記していきます。
ここまでイントロ書いたところで、ちょっと短い気はしますが、お手軽な感じで本稿は終わります。
次回があったら、尾太鉱山の概況と日本の鉱山史をザックリ説明します。
最後に津軽ダムのそばにあった移転記念碑の写真を。
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