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朝日新聞記事 東大教授・鬼頭秀一さん

朝日新聞に取り上げていただいた内容です。

以下引用


■人と自然 密接な関係

 白神山地が世界遺産になったころ、当時新設された青森公立大に4年間いた。

 環境倫理が専門で、人と自然がどう付き合うかを研究している。人が自然とどう関わるか、となると、これは「文化」の問題になる。私も今日(ツアーで)行った田代地区や村市地区などには、聞き取り調査に通った。根深さんが白神の山を守るべく孤軍奮闘していたころだ。

 白神では、世界遺産になったとたんに「中に入ってはいけない」となり、これはちょっと違うんじゃないかという問題が起きた。

《「手つかず」誤解》

 これはどういうことかというと、それまでの自然保護運動には、「自然はか弱くて、少しでも触ると壊れてしまう。だから人間の手つかずがいい」という考え方があり、1990年代はそれが主流だった。

 アメリカの考え方が入ってきたもので、当時はこれがグローバルスタンダードだと思われた。ヨーロッパに比べれば、アメリカには手つかずなところが残っていて、「フロンティアを守る」という愛国的気分が「手つかずの自然を守る」という概念を産んだ。

 白神は、東京からは「手つかずのブナ林」というイメージに見える。それを守るのが保護運動だ、と展開してしまった。この結果が「住み分け」だ。

《一つのまとまり》

 この点は、世界遺産登録に尽力した当時の日本自然保護協会の会長だった沼田真さん(故人)も後年になって後悔していたようで「人間と自然を分けるという形で白神を保護をしてきたが、間違いだった。人間と自然、文化を一つのまとまりとして考えなければならない」などと記している。

 自然・人間・文化を一体として白神を考えていくというのは、根深さんが最初から言っていたところだが、どうもそういうのはきちんと理解されなかった。

 現在は、立ち入り禁止になっている場所にも、地元の人は入り込んで山菜・キノコを採る権利があり、入っていた。白神は、人の関わりとが濃厚にあって守られてきた場所だったのだ。

 地域の人を追い出してしまうと、監視する人がいなくなり、違法伐採などを防ぐことが出来なくなる。行政もNPOもそこまでは監視しきれないからだ。人が入らないと自然は守れないというのは、現在、世界的な流れになってきている。

 《自然保護に新風》

 今回の古道ツアーは、そういった文化的側面を調べ上げてのツアーで、実にすばらしい。こういうことが行われるということは、白神の保全だけでなく、日本の自然をどう守っていくのかについて、新しいことが始まるんだな、という気がする。


写真付きの記事は以下URLよりどうぞ!
http://mytown.asahi.com/aomori/news.php?k_id=02000951111220003
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朝日新聞記事 作家・根深誠さんの講演

朝日新聞に取り上げていただいた内容です。

以下引用

■「山の神」信仰消えた

 白神山地が世界遺産になるまでの話と、なった後の話をします。世界遺産になった後で、いろんなことが変わった。あまり良くなったことはないが……。

《林道計画が契機》

 1970年代の終わりごろに、森林の伐採を目的とした青森と秋田を結ぶ青秋林道の計画が持ち上がり、82年に着工し、反対派が要望書を提出した。その翌年に、「青秋林道に反対する連絡協議会」が出来た。

 反対するにあたっては、面積を1万6800ヘクタールとして「自然環境保全地域にして欲しい」と決めた。これは、あそこのブナの森は、自然の純度はちょっと濃いが、昔から人が出入りして、ゼンマイを採ったり、クマを捕ったりして恵みを得ていたので「原生自然環境保全地域」というのを求めるのは歴史的にも不自然だったからだ。

《93年に世界遺産》

 「白神山地」という呼び名もこの時に出来た。

 それまで「白神」という呼び名がなかったわけではないが、弘前出身の私自身もそうだったし、その昔、岩木山に登った菅江真澄も書いているように、みんな「目屋の山」とか「目屋の奥山」などと呼んでいた。

 「赤石川を守る会」も結成された。源流の木を切られると、土砂が流れるなどして下流域の人々が困るということだ。弘前の私が反対しても、推進する側には関係ないが、流域の人たちが反対すると利害が絡んでくる。この人たちを回って歩いて反対を組織し、地域の過半数が反対することになった。結果、90年に、林道はストップし、93年に世界遺産登録された。

 しかし、世界遺産になったら、とたんに「入山するな」ということになり、地元の人はゼンマイ採りも出来なくなった。今まで木を切ることに専念していた林野行政が、突然、自然保護を唱える。身についてないことをするから、山を取り巻く人間が混乱した。

《縄文人と心共有》

 どんな混乱があったと言えば、例えば、ブナの木に文字が刻まれた「鉈(なた)目」を、山慣れしていないマスコミが「落書きだ」と大騒ぎする。誰がわざわざ山奥の木に家族の名前まで刻みますか。あれは家族の安全を願う祈り、敬虔(けい・けん)な気持ちだった。ところが、悪いことだ、犯罪だ、というような風潮が何年も続き、「山の神」信仰がなくなってきてしまった。

 白神のブナの森は縄文時代のころから変わっていない。中でひとときを過ごせば、当時の人たちと気持ちを共有することが出来る。

 日本の街路樹にはクスノキが圧倒的に多いが、ブナを植えようではないか。平地にブナを。それこそ、世界遺産を抱える地域にふさわしい景観だと思う。


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朝日新聞記事 白神古道と現代

朝日新聞に取り上げていただいた内容です。

以下引用

 「晩秋の白神古道をたどるツアー」(企画・JTB東北青森支店、協力・朝日新聞青森総局、西目屋村など)が3、4日の1泊2日で行われた。研究者らによる講演会を中心に、江戸時代の図画や古文書に残された白神山地への道に、現代の風景や歴史的経過を重ね合わせたツアーの様子を報告する。

 講演会では、白神山地の保護運動で中心的存在だった作家の根深誠さんが「白神山地」という名称が一般的になったのは、ブナ林保護のきっかけとなった青森・秋田間の林道計画への反対運動が契機だったことなどの歴史を紹介した。

 「世界遺産になった結果、入山が規制され、『山の神』信仰がなくなってしまった」などと話した。

 続いて講演した鬼頭秀一・東京大教授は「自然と人との関わりは、いわば『文化』の問題。白神が世界遺産に登録されたころの1990年代の自然保護は『つかずの自然を守る』というもので、これはアメリカ的考え方で、この考え方に基づいた保護は間違いだったといえる」と評価。現代では、「人を排除すると、むしろ自然は守れない、というのが世界的な傾向となってきている」と述べた。

 この後は、丸山康司・名古屋大学大学院准教授(社会環境学)をコーディネーターに、参加者らとの質疑に入った。根深さん、鬼頭さんと、白神ツアーの解説も務めた山下祐介・首都大学東京准教授も加わり、自然保護と人との距離や、今後の保護・保全のあり方などについて意見が交わされた。

 主な質疑応答は次の通り。(敬称略)

 Q 世界遺産となったことへのマイナス面はわかった。「行き過ぎ」への巻き返しや是正のために、何か発信はしているのか。

 山下 地元に若い人がいない。効率性にこだわる世の中の仕組みを変えていかなければいけない。「3・11」で意識が変わるかと思ったが、むしろ悪くなった。林業整備やブナの管理などに金を回すようにして、若い人たちの仕事を作り出していくしかない。

 丸山 ここ7~8年間、ゼミの学生を連れてきている。延べで200人ぐらい。地元の農業青年と結婚した女子学生もいる。仕掛け続けることが大事なのかもしれない。

 Q 静岡県の富士川では世界遺産にならなくても、地域の人や支援の人たちが清掃を続けた結果、カワセミやホタルが増えてきている。

 鬼頭 日本全国で、そういう例が増えてきている。ゴミを拾いながらどう管理していくか、東京の荒川ですら、地元の子を巻き込んで里山ならぬ里川作りが始まっている。そんな意味でも今回の古道ツアーは第一歩としていい企画だ。

 山下 社会だけでなく人も変わってきている。昔は12~13歳で山に入って炭を作り、山のことを知った。このままでは生活の知恵を失うだけでなく、人材育成も必要だ。東京に「白神学校」でも作ろうか。

 Q 都会にとって大きな自然は必要不可欠な装置。山村にいかに金を持ってくるか。これには都会の理解が必要だ。

 鬼頭 「世界遺産」として消費していくだけでなく、地元の人と関わるツーリズムにしていかないと。地域主体で考えて、自分たちの価値を外とどう共有していくか。

 根深 自然に対する良識や共通認識が必要なのではないか。自然保護と地域活性化の方向性が一致するような運動作りが必要なのではないだろうか。

 丸山 監視にしても保護にしても、そこに暮らしている人が関わっていかないとうまくいかない。暮らしを成り立たせる取り組みが必要だろう。


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朝日新聞記事 長期にわたる文化蓄積

朝日新聞に取り上げていただいた内容です。

以下引用

県史編纂室の調査などをきっかけに、平尾魯仙の「安(暗)門瀑布紀行」の重要な意義が明らかになりつつある。これまで十分に配慮されてこなかった本資料は、まさに「新発見」と言える。それは、世界自然遺産認定から20周年をひかえた白神山地の再評価の動きにもつながる。

 この半世紀、自動車交通が中心になるにつれて、道路は大きく変化し、道の風情はなくなった。しかしそれでも古道は、現代の私たちにその記憶を伝えてくれる。

 西目屋村村市には、畳平の毘沙門堂(鹿島神社)から集落を抜けて、川辺の渡しへと通ずる古い道の痕跡がまだ残っている。国吉にも、自動車用道路からはずれて民家や畑の脇を通り抜ける昔ながらの細い道があり、いまも人々の往来を可能にしている。これらが暗門の遊歩道とつながっており、弘前の町と白神山地とをつなぐ確かな絆であることを確かめるのは、気持ちのよい体験だ。

 歴史学や考古学の成果によって、現代に生きる私たちには、魯仙の時代以上に多くの情報が入手可能だ。私たちは道を通して色々なことを学ぶことができる。砂子瀬や川原平の集落は、津軽ダムの建設による移転で生活の痕跡が全くなくなってしまった。しかし、今この地では縄文遺跡の発掘が進んでいる。白神に最も近い村、津軽の最奥の地に、縄文期からのくらしの痕跡が現れつつある。

 また中世の目屋は、日本海側と津軽平野をむすぶ結節点であり、様々な戦乱の舞台でもあって、目屋地域には多くの館跡が残っている。戦国期に砂子瀬勘解由なる人物が、津軽為信の忍者として活躍する様も、「津軽一統誌」が伝えるところだ。

 そして近代。白神山地は都市の燃料を支えた薪炭の大量生産地であり、戦後は高度成長の中、津軽を代表する鉱山地帯・造林地帯でもあった。しかし、エネルギー革命とグローバル化の進展の中で、この地は一気に産業の空洞化を経験することになる。さらに2度のダム移転で、集落は大きく姿を変え、時代の波をもろに受けた。

 「自然の豊かさ」をぼんやり考えるだけでは不十分なのだ。ここにはくらしがあり、信仰があり、長期にわたる文化の蓄積があった。白神山地は自然遺産であって文化遺産ではない。しかし、そもそも自然と文化を切り離す発想自体に無理があるのではないか。白神山地とは何か。その答えには、自然科学ばかりでなく、くらしや歴史、文化や民俗、信仰が、深い関わりをもってくるはずだ。

 『白神学第2巻』では、「道」を手がかりに新しい白神の歩き方を模索した。本書を手にとってゆっくり歩いてもらうことで、これまでとは違った白神山地の意味に気付くことになるだろう。(首都大学東京准教授)=おわり


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朝日新聞記事 霊への畏れと感謝描く

朝日新聞に取り上げていただいた内容です。

以下引用

幕末に平尾魯仙が記した「安(暗)門瀑布紀行」と、その前に白神山地に入った菅江真澄の紀行文を見比べてみたい。

 真澄は暗門の滝を2度訪れ、寛政8年(1796年)冬の「雪のもろたき」と2年後の夏の「外浜奇勝」という日記を残している。

 「雪のもろたき」で真澄は、暗門川の沢歩きでなく山の稜線(りょう・せん)を行った。そのため暗門の滝のうち最も上の第一の滝の首頭に出て上から眺め、第二の滝を遠く眺めて終わっている。つまり、暗門遊歩道で向かうと最初に出てくる第三の滝には行けなかったわけだ。

 冬だからだけではなく、暗門川渓流は一般の人の往来を妨げる非常に険しい場所だった。このため魯仙も真澄も、現地で山仕事の従事者を案内に雇っている。

 興味深いのは、真澄もまた怪奇現象に出会っていることだ。「外浜奇勝」で尾太鉱山近くの小屋に泊まった真澄は、起きがけに案内者たちが交わす会話を書き留めている。「昨日、万足(まん・ぞく)の夢を見た。その魂がやってきたのだ。山中はおっかない」「自分も見た」などと話す。万足とは、山中で亡くなった人々の霊のようだ。真澄の場合も、深山は怪奇現象が生じる場であり、霊的世界との接点であった。

 白神山地に対する単なる自然保護とは違うこの感覚は、魯仙と真澄に通ずる。また、これらの記録からも、人々が古くから白神山地を利用していたことが分かる。ずいぶんと奥まで木を切っているのだ。

 しかしそこには畏(おそ)れや感謝も共存していた。山には神々との間の様々なルールがあり、多くの人が命を落とし、霊が行き交う場でもあった。この神の観念、神聖なものへの感覚は、キリスト教的な神とは違う。

 西欧の神は、自然を作り、世界を作り、すべての運命を決める。これに対し、日本の神々は、機会があれば交流し、接触し合う身近な霊的存在である。山の中ではとくに如実に感じられる。魯仙も真澄も、それを的確につかみ、描写した。

 重要なのは、魯仙の紀行では神性が山の中だけでなく、弘前の町から暗門の滝の上まで途切れることなくつながりとして描かれていることだ。神的世界は深山だけでなく、ふもとにある普段の生活と地続きであった。

 白神山地、岩木山、岩木川、津軽平野、そして十三湖と日本海。これが魯仙の画題であった。山川海の間で育まれている人間の生活。その条件は神聖であり、畏れや敬いがなければならない。私たちが生きている場にある神的なものを見直すこと。白神山地は、その起点として位置づけられていたのではないか。(首都大学東京准教授)


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プロフィール

yamasso

Author:yamasso
白神共生機構(SSO)代表
山下祐介(yama)
および白神共生機構会員によるブログです。

NPO法人 白神共生機構が立ち上がりました。
 このNPO法人は、私たちが
  白神山地の
   森 と 人 の 共生
を作り上げていくためのものです。

このブログでは、本機構の活動内容を紹介していきます。
 とともに、
白神山地周辺の人・社会・自然環境の状況について広く解説していきます。

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