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5月27日のこと

 一つ目は練馬区役所です。平川市が交流のある宮城県亘理町に行った際に、練馬区が8名ほど、4月からずっと職員を出しているというのでヒアリングに行って見ました。
 区長の判断で職員を派遣し、とくにこれまでなんの交流もなかった亘理町に派遣を決めたとのこと。2日間、宮城県社協、宮城県庁を周り、南の方が手薄だということで亘理、山元に打診し、山元の方は話もできない状態だったので、亘理に決めたということでした。
 ただし、練馬から区民が亘理に行っていると言うことはなく、区民もそれほど知らない様子。
 理由は・・・・よくわかりました。70万人もいる練馬区ですが、地域メディアがない。練馬新聞などがあるようですが、それぞれ月数回。大手新聞社は記事を依頼しても書いてくれない。月2回の広報で知らせているという状況でした。
 したがって、東奥日報や陸奥新報、津軽新報をもち、アップルウェーブを持つわが弘前・津軽地域は、もともと底力を持っているのです。とくに新聞をもっているかどうかは、こういう時にコミュニティの動き方を左右します。これは間違いないと思います。考えてみれば、官民ぷらすメディアの連携で、この二ヶ月やってきたわけでした。

 もう一つ、東京電力本社と経産省を見てきました。私はもっと緊張感のある様子を期待し、のこのことカメラなどをもっていったら、機動隊にお前なんだと、そう威嚇されて、ムカつくつもりで行って見ました。ところが、警戒はほとんどなし。東電前でお坊さんが二人太鼓をたたいているだけで、それも毎日来るものではないとのこと。経産省も、例の原子力保安院のある建物には、警官が一人たっているだけでした。
 もう霞ヶ関は日常のようです。ふつう人間が集まって奮闘していたら、自然とその気が感じられるもの。全く何もない。
 何もないことに異常さを感じ、怖くなって帰ってきました。
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東日本大震災(12)

東日本大震災から二ヶ月 青森における被災地支援を考える
(5)あたらしい北東北のかたちへ 震災を機に青森県民と岩手県民の新しい関係を

 震災から二ヶ月が過ぎた。被災地の現場では今後ますますいろいろな知恵、人手が必要になる。仮設住宅の建設も始まったが、仮設への入居で一息つくのも一時の安堵にすぎない。被災地の生活再建はおそらく一筋縄ではいかない。なかでも、漁業や農業、市街地の商工業の再建には、市民感覚の新しい知恵が必要になる。再建の知恵はお互いの助け合いを基調にし、グローバル経済の論理から離れた、ローカルな論理を積み上げていく中で見出されていくだろう。
 ローカルな論理の再構築は、ローカルな立場にいる人の目線で考えるのが一番有効だ。国や専門家の意見を聞けば、第一次産業や小さな商工業にまとまっている今回の北東北の被災地経済は、効率が悪いので再生不要とのレッテルすら貼られかねないからである。国家やグローバル経済の視点から見るのではなく、暮らしや地域、家族の視点から発する確かな声を組み上げ、高めていくことが大切だ。
 とはいえ、どの地方地域社会でも同じように、青森でも岩手でも、そうしたローカルな声の集約が本当に難しいものになっている。住民はみな身勝手。自分のことしか考えない。本当はお互いに協力し合って、地域生活のこと、産業や経済のことを考え、協同していかなければならないのに、これまでになくそうした協同体制を作ることが難しくなっている。
一言でいえば、これから被災地でしていかなければならないのは、そうしたコミュニティの再建なのである。それも、今回のような大規模災害のような大きなリスクにも耐えられるような、強いコミュニティを作ることだ。リスクはむろん災害だけではない。原発事故も、風評被害も、またTPPも、企業倒産も、少子高齢化も、様々含めて、北東北の地域社会には大小様々なリスクが存在する。もとからあるこうした課題を、今後とも乗り切ることができるようにコミュニティを再建していくことは、被災地だけの課題ではなく、北東北の地域社会がみな直面している共通課題なのである。
 被災地でこれから行われる実験は、よい結果が出ても悪い結果が出ても、北東北で暮らすみなの生活に直結する。被災地の再生という課題は、少なくとも北東北のこれからの試金石になる。そういう認識で被災地支援に望むことが大切だ。
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 私たちは、あまりにも大きなシステムに自分たちの暮らしを委ねすぎたのである。今一度この暮らしを見直して、身の丈にあったものに修正していくことが必要だ。インフラのあり方、消費のあり方、地方自治体のあり方、政治や議会のあり方、暮らしを支える商店や事業者間の関係、そしてなによりご近所や家族のあり方を見直すこと。
 その際まず、いま被災地支援を通じて求められるのは、市町村というコミュニティのあり方のように思える。市町村は行政職員だけで構成されているものではない。市民がいて、事業者があって、組合があって、様々な個人・法人が有機的に連携しあってはじめて市町村=地域コミュニティなのである。被災地を支援する、市町村レベルでの救援コミュニティを作ること。救援コミュニティをうまく構成しながら、被災地コミュニティの再生を支援する。そうした「対口支援」の日本版を、今からでも遅くはない、できるだけたくさん生み出すことが私たちの第一の目標になる。
 そしてすでに、そうした芽はわずかだが見えてはいる。弘前市は野田村に、南部町や平川市は山田町に、そして黒石市は宮古市に、青森市は陸前高田市になどなど。今回の震災では震災前・震災後の様々なつながりを通じて、具体的な支援をすでに行ってきたはずだ。二ヶ月たって状況は一応落ち着き、支援に行った関係者もホッとしているところかもしれない。しかし被災地の現状はまだまだこれからの長い支援を必要としている。このつながりを今後につながるものにしていこう。
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いずれにしても、岩手北部の支援は、青森県・秋田県が担うのが理想であることは間違いない。南からの支援はおそらく今後も有効な形ではあがってこないだろう。国は福島の源の発につきっきり、宮城は宮城の被災地を抱え、支援の手薄な岩手には、沿岸南部に巨大な被災地がある。岩手北部に対して有効な支援ができるのは青森県民だけだ。身近なコミュニティが、被害のあった身近なコミュニティを助ける。考えてみれば当たり前のことだが、震災後二ヶ月を経て、このことをあらためて自覚しつつ、この未曾有の事態に対峙していこう。
たしかに青森県は、三沢・八戸・階上などに被災地を抱え、さらにはあおもりDCキャンペーンを前に観光客が激減するなど間接被害も大きく、県民みなが被災者だともいうことができる。しかし、被害の実態・本質は、もっと根深いものだ。青森・岩手を起点に、東北が一帯となった助け合い、復興へむけた協力体制を作り上げていくことが、今後の大きな課題になる。十七年の弘前大学での活動を終え、いま東京にいる私だが、津軽衆の一員・青森県民の一員として、そうした青森と岩手の新しい関係を長く見守っていきたい。

東日本大震災(11)

東日本大震災から二ヶ月 青森における被災地支援を考える
(4)「だれかが何とかしてくれる」から、地域主権・住民主体の被災地再建へ

 未曾有の災害、想定外の大津波、レベル7の原発事故。北日本大震災はこの日本の姿をあらためて問い直す大きなきっかけにならなければならない。これまでにないモノの考え方、被災地支援、復旧・復興のあり方が求められる。
 震災後の被災地や日本社会全体の様子について、これほど大きな事態が生じたにもかかわらず、日本の国民は落ち着いていたとの高い評価がなされている。しかし、私はその裏に潜む、負の側面がどうも気になっている。
 「国が何とかしてくれる」「経済が回復すれば何とかなる」「専門家が解決してくれる」。そんな人任せの風潮を、この二ヶ月、私はいつもどこかで感じてきた。そしてこの雰囲気は、実は震災前からずっとつづいていたもののような気がする。私が関わってきた地方都市や農山漁村における地域活性化・地域再生の現場でいつも感じていたものだ。
 いざという時に慌てないこと、あえて騒がないこと、無用に不安がらないこと。緊急時に落ち着きを保つことはたしかに大切だ。しかし、この震災からの復旧・復興にむけては、しっかりとした緊張感、適切な危機感をもって、実際に身体を動かしていくことこそが求められる。これまでにない事態に対して、これまでにない対応を実際にしていかねばならない。「超法規的に」などの各界からの掛け声があるにもかかわらず、震災から二ヶ月たって、現実はいまだに既存のシステム、既存の価値観で動いているように見える。これから仮設住宅の本格的な建設が始まる。避難所の生活を終えて、被災地ではこれから復旧・復興のビジョンを作り、資源や知恵を再生に向けて総動員していかねばならない時期に入る。この機会にこそ、今までにない新しい発想で、新しい社会のシステムを作っていくのだという緊迫感が求められる。
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 地域再生にもっとも大切なことは、文字通りの地域主権・住民主体、本当の意味での官民学のパートナーシップだと思う。逆に言えば、今までの地域主権・住民主体は形だけだったし、パートナーシップも言葉だけだった。いままでの発想を超えて、この震災を機会に、本当の地域再生を目指し、復興にむけた体制をつくっていく必要がある。
既存のシステムによるしがらみ。形だけの地域主体・住民主体。それは今回の震災でもしばしば観察され、今後の被災地の復興を妨げかねないものとなっているように思う。むろん、みんな頑張ってはいる。だがそのあり方には今後、大きな検討が必要だ。苦言を呈するようだがあえて少し具体的に示しておこう。
 例えば、自治体間の職員派遣について。被災地の現場では、とくに発災当初、動ける人手が絶対的に足りなかった。ところが人材派遣のシステムは旧態依然としていて、それはいまだに続いているように見える。自治体間の職員派遣要請は、被災県が被災市町村からあがってきたものをとりまとめ、それを各県に要請し、各県から市町村職員に割り当てがいって、はじめて実現するものである。もちろん、そんな悠長なことをしていたら、現場で一番必要な時に必要な人材を確保することはできない。そのため関西や東海の自治体などでは、95年阪神・淡路大震災の教訓をふまえ、派遣要請なしの独自支援の必要性が認識されていて、早い時期から独自の判断で被災地支援がなされ、大きな効果を上げたようだ。これに対し、北東北の自治体はこの点で、お上に従おうとする傾向が強く、青森県でも岩手県でも指示待ちが相次いだ。弘前市の独自支援を私が評価するのはこうした背景があるからである。
 ボランティアの現場でも問題があった。当初、ボランティアは現場が混乱するので来ないでくれ、というメッセージが相次いで出されていた。今でもそれは続いている。そのため、混乱している被災地に「ボランティアにはいくべきではない」という考え方を持った人も多かったようだ。むろん、自活できず、自分で判断できない人は、安易に被災地に行くべきではない。しかし、自己完結し、自分で自分のできることを判断できる人は、もっともっと積極的に現地に入ってよかった。いまでも、ボランティアへの調整・統制が現地では強調されているが、ボランティアはあくまで個人発のもの。なにもすべて公共機関を通す必要はない。平時のボランティアはたしかに、社協のようなしっかりとした組織で対応するのが効率的かもしれない。しかし、復興に向けて様々な課題をクリアしていかなければならなくなる今後は、自分で考え、自分で行動してくれる協力者が、被災地の復興にとっては大きな力になるだろう。

東日本大震災(10)

東日本大震災から二ヶ月 青森における被災地支援を考える
(3)野田村米田公民館での「食べにけーしょん」 自然体の交流をつくっていくこと

 平成二十三年四月九日。野田村にある米田(まいだ)公民館にいた。米田集落の避難所である。米田では四〇数戸ある世帯の約半数が津波で流された。インフラの復旧を待ちながら、文字通り米田集落の皆の拠り所となっていた。
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この米田公民館に、津軽衆有志野田村支援隊代表の土岐さんの発案で、弘前のそば屋・たけやに提供してもらった饂飩を持ち込み、「食べにけーしょん」を試みることとなった。炊き出しではない。いっしょに食事を用意し、一緒に食べることで、集落の人々とボランティアとの交流を図るものだ。「助ける」というのではなく、「仲良しになる」「交流する」ことを目標にした支援隊のこの活動は功を奏し、この日、私たちは饂飩をゆでて提供しただけでなく、米田集落自慢の手作り豆腐をごちそうになるという成功を勝ち取ることができた。
野田の塩づくりは有名だが、そのにがりで作った豆腐は絶品。津波で流された米田の直売所では、いつも人気商品だった。「この豆腐をまた作って売りたい」と、婦人部の人たち。交流の中から、この地域の再生へ向けた具体的な目標も浮かび上がってきた。
 饂飩と豆腐を食べながら、自然にこんな話になった。「弘前から来たんだって?弘前ならさくらだな。見てみたいな。」「弘前市では皆さんを招待するといっているよ。ぜひおいでよ。」
 野田村からの弘前さくらまつりへの招待は、けっして押しつけなどではない。さくらまつりへの招待はすでに市長からも提案されてはいたが、私たちはそれを表だってはしゃべらなかった。まだその時期ではないかもしれない。当時、仮設住宅の供給はまだ見通しが立たなかったし、まして生活再建・仕事の再建は話すら出てきていない状況。しかしそれでもでも3月末には野田村の行方不明者はゼロになり(三十八名が死亡)、一つの区切りは見え始めていた。私たちは、避難所における長期生活からすこし離れてみる機会が欲しいと、自分たちで言い出してくれるきっかけを待っていた。まさにこの日それを捉えることができたのだった。
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 四月二十七日の弘前さくらまつりには、米田集落からそのほとんどの人が参加して、まさに集落をあげての交流となった。実はまだ被災地は落ち着いてはいない。将来も不安で花見どころではない。でも土岐さんたちが誘ってくれるなら。活動開始から約一ヶ月。最初会った時は青ざめ、暗い顔をしてきたこの地域の人たちが、そういう気持ちになってくれたことに、野田村支援隊は大きな達成感を感じていた。「助ける」のではなく「交流」。さくらまつりへの被災地からの訪問には、こんな関係形成の一コマが隠れているのである。
 実はこの花見、マスコミが殺到して、野田の人たちは緊張しっぱなしだった。本当にみながのんびりし、楽しい交流が始まったのは、弘前市が提供した、そうま星と森のロマントピアでの夜の会食だった。とはいえ、メディアによるこの交流の報道は、観光地・青森、被災者支援先導地・青森を印象づけるのにあまりあった。実際に、キャンセルの相次いだ中でその後、ある程度の観光客の回復が見られたという。結果として、野田村の人たちは、観光地・弘前のために、さくらまつりに来てくれたようなものである。
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 ボランティアに行くのもよい。被災地への職員派遣も重要だ。物資の支援、義援金の拠出もたしかに一定の意味はある。しかしこれらは一時的な救援でしかない。重要なのは長期にわたるおつきあいなのだ。この震災の被災地の課題は数多い。復旧・復興には、これまでにないほど時間がかかるだろう。将来が見えない中、被災者にはふと立ち止まった時に大きな不安が襲いかかってくる。何もできないかもしれないが、そんなときに、あの人たちは見捨てずに見守ってくれる、かならず必要な手を差し伸べてくれる、そんな安心感を作ることができたらまずは成功だ。
そしてそれは、個人個人では決してできないことなのである。一人一人でする努力にも限界がある。大切なのは、支援の力自身が、まとまった継続的な力になっていることだ。自治体や住民、企業や専門家が一体となった救援コミュニティの形成が必要なのだ。一時的、場当たり的ではなく、そうした救援コミュニティと被災地との「コミュニティ間の交流支援」を実現することが、長期支援にあたっての理想なのである。
こうした「対口支援」は、中国支援大地震で最初に試みられたものである。広域にひろがる被災地を分け、被害のなかった各地域に支援の責任を分担させていく。中国のこのやり方には批判もあるが、今回の震災では日本型の対口支援こそまさに試みられなければならないものだ。友好都市間など、既存の縁を使った支援交流はすでに各地で始まっている。これまで縁のなかった自治体でも、相手を決め、資源を動員して、息の長い支援をしていくことが必要だ。とはいえ、マッチングがなかなか難しく、実現している例はまだほんの少数である。弘前市と野田村は、そうした震災をきっかけにしたコミュニティ交流支援の先駆事例になりうるものである

東日本大震災(9)

東日本大震災から二ヶ月 青森における被災地支援を考える
(2)弘前市による被災地支援の論理と実践 コミュニティ間の交流支援の実現を

 四月二十七日。弘前さくらまつりが開催されている弘前公園に、岩手県野田村にある米田集落の一行約三十名がいた。引率するのは、津軽衆有志野田村支援隊・代表の土岐司さんとボランティアの仲間たち。私が代表を務める白神共生機構のメンバーもいた。開花が遅れて、肝心のさくらの花はまだだったが、和気あいあいと公園の桜の下を散策した。
 被災地からの観光地への訪問は全国の他地域においても行われたが、このケースのもつ、他にはないとても重要な意義がまだあまり伝えられていない。そこでこの場を借りて、ここであえて強調してみたい。
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 震災から二週間後の三月二十五日、津軽衆有志野田村支援隊は野田村への支援活動を開始した。野田村支援隊は、とくに白神山地を舞台に活動を展開してきたNPO諸団体を中心に、それこそ津軽衆の有志で結成したもので、この日はその先遣隊の派遣が行われた。野田村をターゲットに、いくつかの避難所を訪ね、状況を確認しにいったのだが、その時に立ち寄った一つが、この米田集落である。
 野田村はこの時、岩手北部にあって支援の過疎状態となっていた。南には大槌町や陸前高田市など、役所そのものを失った大規模被災地が展開しており、また北の八戸市も港湾や民家に被害が広がっていた。野田村も役場自身が浸水し、中心市街地や沿岸の農村・漁村集落が壊滅的な被害を受けて無残な姿をさらしていたが、人口の少ない自治体のため、今後とも広域的な支援の網の目から漏れてしまう危険性があった。野田村支援隊が入った、震災から二週間後においてさえも、避難所の生活はまだ切迫した状況が続いていた。
 この野田村支援隊のボランティア派遣がきっかけとなり、弘前市役所が連動して、その後、弘前市民をあげての支援活動に拡がっていくこととなる。弘前市が野田村に支援の対象を決めたのには、私自身の介在がある。実はこの数日前、大阪大学・京都大学の災害心理学の研究チームが岩手北部沿岸地域の視察に入り、野田村へのボランティア支援の緊急性について私の方に報告がもたらされていた。とっさに思ったのは次のようなことだ。弘前市と岩手県の被災地は、隣接県とはいえあまりにも距離が離れている。また大槌町や陸前高田市のような大規模被災地では、大きくはない弘前の手には余るかもしれない。しかし、岩手最北部の被災地で、避難者300人ほどなら、弘前市民の力も大きな威力を発揮できるかもしれない。
 三月二十七日、支援隊の活動を知った弘前市・葛西市長から「会いたい」との知らせがあり、急遽会談が行われた。その際とくに、私の方からは次のことを強調した。いま市民のボランティア派遣が始まっている。しかしボランティア以上にいま必要なのは、被災地の自治体そのものの応援である。災害時の業務は、現行の制度上どうしてもそのほとんどを自治体職員が引き受けざるをえない。ところが小さな村ゆえに、なにぶんにも人手が足りない。職員自身も被災者でもある。中心となるべき自治体が疲弊していては、ボランティアとして市民が多数駆けつけても十分な働きはできない。逆に、自治体職員の苦悩は自治体職員同士が一番よく分かるはずだ。ボランティアには行政のかわりはできない。行政体には行政による支援が適切だ。弘前市では即座に企画部長の派遣を決め、独自の判断・自己負担で野田村への職員派遣を決めてくれた。
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 この弘前市の派遣応援が大きなきっかけとなり、弘前市民の方でも野田村への活動集約の声が高まって、物資支援、ボランティア支援の輪が拡がっていった。このことが持つ意味は次のようにまとめられる。
 今回の震災はあまりにも広大に被災地が展開し、そのため、被災地支援をする人々もターゲットを絞りきれずに、いろいろな場所に出かけて右往左往している様がよく見られた。さらには、あまりにも事態が大きかったため、現地に行くことさえためらわれる空気が流れてしまった。大規模災害時には国民は自然と一体となり、支援の波が沸き起こるものだが、今回は福島の原発事故と計画停電、長期化した原油供給量の制限、物流の停滞などもあり、手をこまねいている間に支援意識のピークが過ぎてしまい、十分な支援がなされないまま被災地が放置される状態が続いていた。
 弘前市も放っておけば、被災地のことを忘れ、自分自身の身を守るだけの方向に流れていたかもしれない。しかしながら、野田村という、身の丈にあった対象を設定できたので、四月に入ると毎週のようにボランティア・バスが通うようになり(弘前市、弘前大学、企業ボランティアによる提供)、効果的な支援活動が実現していった。官民一体、パートナーシップという言葉を使うことはたやすいが、現実化するのは難しい。弘前ではそれを早い時期に達成することができたと、まずは評価したい。
プロフィール

yamasso

Author:yamasso
白神共生機構(SSO)代表
山下祐介(yama)
および白神共生機構会員によるブログです。

NPO法人 白神共生機構が立ち上がりました。
 このNPO法人は、私たちが
  白神山地の
   森 と 人 の 共生
を作り上げていくためのものです。

このブログでは、本機構の活動内容を紹介していきます。
 とともに、
白神山地周辺の人・社会・自然環境の状況について広く解説していきます。

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